母の新しい生活
2006年2月

今年の初めよりショート・ステイで預かってもらっていた母、この2月より終のすみかと
なるであろう、グループホームに入居しました。
入るのに半年、1年、3年どのぐらいかかるかわからないと言われていました。
それが介護認定の診察と面接を受け、介護度が決まったとたんに
おばさんの入っているホームから入居の電話をもらいました。
いつもそのホームのクリスマスパーティに、母を連れて参加してたので
(多くの人が入居を待っているにも拘わらず)
ホーム側も母だと皆さんとなじみもあり、入ってもらったらうれしいとの事でした。
助かったような、それでいて、もうちょっと待ってという気持ちがそれでもあったのです。
でも主人言うには " もうすぐ大変な時が来る。これはいいチャンスだよ 。"
 " もう何年も前から、人格が変わってきていた。 " とも。
いつか " あと2〜3年ぐらいだなー " と言われていたタイムリミットは
とっくに切れています。 
一般的に医者は様々な期限を早めに設定するように思えます。うちも然り。

母の部屋には、趣味というか、好きであった事が覗える沢山の本が並んでいます。
その中に " 物忘れをどう防ぐか " というような本も何冊かありました。
多分、自覚し始めたとき、読んでいたみたいです。
 " これだけ忘れたら、いやになるわ。 " と言ってた母
 " 忘れる " という状態さえも、最近は認識していないようです。
他人事とは思えない私の近未来です。
私が何かと忙しく動き回っているので、母と接するのは、食事の時と
お三時のお菓子や果物を母の部屋に運んで行ったときだけ。
懐かしいアルバムを前にして、小さい頃の事を思い出したり
二人とも花好きなので、花の画集を開きながら、この花はどーのこーのと語り合う
CDから流れる気持ちの洗われるような美しい声に
これは誰の声など言いながら、一緒にその歌曲を楽しんだりしていました。
でも最近はテレビもつけず、じーっと横たわって
目をつぶっているような毎日でした。
人間に生まれてこんな風になるなんて、なんと淋しいことかと思われましたが
なにも本人が望んでなったわけじゃなし・・・。


母を送り届けた日、忘れもしない、どしゃぶりの中、運転中のフロントガラスに
流れる雨を " 私の心の中と同じだわ " と思った途端、
胸の芯のほうが痛み、同時に涙があふれて止まりませんでした。
本当に心が重くなりました。
チャイコフスキーの " 悲愴 " のあの重圧感そのものでした。

それも家に着く頃には、その涙で洗われたような、すっきりした気分になれました。
すぐ、お昼の用意をし、主人と食卓を囲んだ時
 " お母さん、どうだった? " と言われて、またもや、こみ上げるもので
言葉になりませんでした。
何も起こらないときは本当に穏やかで、いうことがないのです。
でも、一旦、パニックになったりすると、家中が夜も昼もなくなるのです。
私がそのストレスで胃けいれんを起こし、なかなか痛みが取れずに
点滴してもらっているのを見ても、 " どこか悪いの? " と気遣ってくれるのです。
小さい時から大好きだった母、いつまでも一緒にと思っていたのに・・・。


数日後、会いに行ったとき、その前にも電話で聞いていましたが
リビングで明るく、他のメンバーと談笑している母の姿を見、心からほっとしました。
 " 明日、朝早くから旅行に行くので、ここで待っててね。ご飯のこともお風呂のことも
みんなして下さるので安心して。 " と言うと、 " そう、九州へいくの?どのくらい?
 " 2週間 " " 長いねー " この会話で納得して、入所して以来
会いに行くたびに、同じ会話で帰ってきます。
家にいるときより、皆さんとのおしゃべりや行事に生き生きとして
結構、快適な暮らしのように思えました。
それでも私は最後の最後まで心の中にわだかまりを残すことでしょう。