0:25pm 白糸の滝を経て、左に2568mの浅間山を見ながら
鬼押出し園に到着。(火口で鬼が暴れ、岩を押出したという言い伝え)
鬼押出し園
1783年、浅間山が大噴火し、山の北側(群馬県)にある嬬恋村(つまごいむら)に
流れ出た溶岩が、幅3キロ、長さ12キロの溶岩原野を作ったと書かれている。
鎌原(かんばら)観音堂
入園してしばらくすると、雨と、ものすごい雷鳴に恐ろしくなって、車に戻った。
一時的な空模様みたいだから、ちょっと、近くの鎌原観音堂へ
向かいましょうと。
それは、田舎のどこにでもある静かな風景の中にあった。
大噴火当時、時速100kmの火砕流が、鎌原地区を襲った。
高台にあった観音堂にいた人や、この近くの人は助かったが
観音堂の石段下まで辿りついて、亡くなった人のあることが
のちの発掘調査でわかった。
雨は止み、もう一度、鬼押出し園に戻って
小一時間かかって、遊歩道を回ってきた。
嬬恋郷土資料館
近くに、嬬恋郷土資料館があるという。
ちょっと疲れていたが、もう少し、詳しく知りたいと思い、行くことにした。
資料館のパンフレットに
≪朝方より鳴動も静かであったが、突如、大量の火砕流を噴出し
土砂や水をまき込み、”鎌原土石なだれ”と、化した。
土石流は吾妻川にまで達し、沿岸の75ヵ村の人馬を
残さず、流失させた。≫
≪鎌原村全118戸が流失。死者477人。奇跡的に助かった93人。
8月5日、観音堂の供養祭では、浅間山噴火大和讃が唱えられる。≫
*和讃とは、仏教の教義や仏あるいは高僧の徳などを
和語でたたえるもの。 曲調をつけて詠じる歌。
その内容
大噴火の始まりから、大惨事の様子。又、残された人々の悲惨な状況。
隣村の有志により、夫を、妻を、親・子を失ったそれぞれの人に
見合う人を世話したが、月日が経っても、夜ごとの泣き声・悲鳴が止まらず。
その声の恐ろしさに、東叡山から、僧侶をお願いしてお経をあげてもらったら
不思議にも、泣き止んだ。これを末世に伝わるよう、唱うべし
活字で読んでいたのと見るとでは、大違い。
生き残った人々の底知れぬ苦しみ・所在のないような悲しみを
少しは、この身に感じた。
これから先の人びと、われわれも含めて、決して、こんな痛ましい
悲惨な出来事に会わぬよう、常日頃から、心しておかねばならないと思えた。