その二 " 悲愴 "


        高校時代、音楽の時間、世界の名曲、クラシックを何曲も聴かせてもらった。
        その中の一つがチャイコフスキーの " 悲愴 " だった。
        美しい旋律に始まり、何楽章かに入ると、教室の床、窓ガラスを揺るがす音響。
        と同時に、救いようのない、逃げ場のない、慟哭の淵に立たされたような絶望感。
        そこから這い出し、安らぎの世界へ。
        それ以来、いいなと思う曲は沢山あっても、ここまで心を動かされる曲を知らない。
        いつの頃か、家には当時流行のステレオセットがあった。
        謡曲を嗜む父だったけれど、又クラシックも好きで
        夕食後、父が好きで集めたレコードを、時々、聴いては楽しんでいた。
        ただ、この思い入れのある" 悲愴 " だけは、自分のお小遣いで買ったのを覚えている。

         11/1(土) 前置きが長くなったけれど、この" 悲愴 " と同じくチャイコフスキーの
        " ピアノ協奏曲第一番 " をシンフォニーホールへ聴きに行った。
        結論からいうと、全く当て外れ。
        総勢約100人の団員から成るサンクトペテルブルグフィルハーモニー交響楽団
        (昔のレニングラードフィル)を率いる「指揮」ユーリ・テミルカーノフと、
                ピアノのデニス・マツーエフ。
        マツーエフのピアノは指の超絶技巧にのみ走り、曲の裏にある音の響きに蓋がされたよう。
        続いて " 悲愴 " 。
        不安・焦燥の塊が次第にふくらみ、やがて身の置き所のない様な
        絶望感にうちひしがれる、そんな思いなど伝わってこない。
        ただ、騒音に近いような大音響ばかりが目立つ。
        あまりにも期待を裏切られ、腹立たしささえ覚えて、帰ってきた。

         


          少し後になって、往年のカラヤンのリハーサル風景を、テレビでたまたま見る機会があった。
        すべての指揮者がそうであるように、団員たちが彼自身の感性に同調するまで、
        妥協を許さない。
        細やかな指導風景を見て、こんなふうにして、曲作りをしていくのかと、感心させられた。
        同じ曲でも、印象が全く違うのは、指揮者の感性の違いによるということを
        はっきりと納得した。 これって当たり前の話らしい。