歌舞伎その他
2013年7月




パトリシア・カースの翌日7/12(金)、新しくなった歌舞伎座を見に行った。
初めての歌舞伎、この年まで見たことないの?と、まわりから驚かれた。
今までチャンスがなかったとはいえ、心のどこかで、敬遠していたのは事実。
能といい、歌舞伎といい、全くわからぬ口調で、謡い語られる世界は
私には、まず理解しがたい、退屈なものだろうと長い間、思っていた。
それが、美術館と同じように、解説のイヤホーンを借りて聞くうち
あのまとわりつくような言葉の流れも、話の筋も少しづつわかってきた。





七月花形歌舞伎は”仇討”を主題とした
「加賀見山再岩藤」(かがみやまごにちのいわふじ)で、松緑・菊之助・染五郎が
すべて代替わりの若手の役者陣であった。
もれなく宙づりもあり、白塗りの顔でもそれとわかる人気の役者であったり
様々な角度から、観客を楽しませるものであった。
思っていた堅ぐるしさはなく、もともと庶民の娯楽から発展してきたのもうなづけた。
後で知ったのだけれど、役者見たさに通う人も多いらしいとか。
私は筋を追うのと、どの役がどの役者か、見極めるのに忙しく
あれよあれよと言ううちに終わってしまった。
以前、人形浄瑠璃を見に行ったことがある。
見る対象が人形なので、想像が膨らむ。
人形の所作の中にその人形(物語の人物)の情念や、さらには、にじみ出てくるような
品格までも感じ、深く、感動したことがある。







お盆も済んだ頃、実家の古い仏壇を整理していた。
大正の終わり〜昭和の初めに、父の両親は亡くなっていたが
その当時の葬儀のいろいろを書いたものや、そのほかに
見慣れた謡の本と字体の違う本(勘亭流:歌舞伎の看板や番つけに書かれている)の
二種類の本が何冊か出てきた。




 上が浄瑠璃の本
下が謡曲の本
ページの最後を見ても
印刷所も見当たらない
多分、手書きで写したもの 
 ページの裏に昭和10年
○○印刷とあった
謡の本は上部にシテ(主人公)の
所作が描かれている





父がまだ若かった頃、浄瑠璃をやっていた祖父から ”男のたしなみ” として
何か(伝統芸能)するように言われたそうな。
父はとっつきやすい謡を選んだという。
家に裃(かみしも)、太棹(ふとざお)、象牙の撥(ばち)があったのを
子供心に覚えている。これらは、祖父のものだった。
家で舞台を組み、知り合いに集まってもらって、ご馳走をふるまい
浄瑠璃を披露していたという。 ”男の美学”なるものか?
後々になって、古き良き時代の旦那衆の芸事のひとつだと知った。


三味線を伴奏にした浄瑠璃は人形浄瑠璃や歌舞伎には、語り音楽として
欠かせないものである。
物語作者の近松門左衛門と語り手の竹本義太夫が、この世界を大いに発展させ
庶民の間にも、その声に魅せられて、ひいきの太夫の語り口をまねて楽しんだという。
この音曲を楽しむという流れは、ずっと戦前まで続いていたようだが…。


大名・武士の間で完成された能楽、庶民の間でさらなる娯楽性を模索してきた歌舞伎
伝統を引き継いできた人形浄瑠璃が、連綿と続いてきた所以は
それぞれが、人々の感性のどこかと結びつき、心満たすものがあったのだろう。
数ある日本の伝統文化の中でも、世界に誇れる芸術性の高い芸能であると思う。